• Novel #2

    私が上京したのは19歳のとき。それから10年以上路上やライブハウスで歌い続けた。売れる確証なんてどこにもなかったけど、自信だけはあった。
    人生何が起こるか分からないとはよく言ったもので、こんな私でも最近は、音楽で生活できるようになってきた。私の場合、きっかけは友人の結婚式用に作った曲が、たまたまYouTubeでバズったことだ。
    その日から、私の世界は一変した。複数の事務所から契約しないかと誘われ、デビューが決まり、曲を出し、テレビに出演した。数年ぶりに、恋人もできた。
    それから、じいちゃんが死んだ。

    今、私の目の前には、新品の財布が箱に入ったまま置かれている。
    『君に似合うと思って』
    出来たばかりの恋人が、そう言って手渡したそれは、先月発売した曲がオリコン入りしたお祝いだという。
    私は箱に手を伸ばそうとして、やっぱり止めた。それから、テーブルに置かれたままになっていた自分の財布を手に取る。
    長年使い続けている二つ折りの革財布は、傷や汚れがそこかしこにあった。いつもジーパンのポケットに入れて持ち歩いているからか、押しつぶされて形が崩れている。
    この財布は上京する前、じいちゃんが餞別だと言って私にくれたものだ。

    『やりたいことを、やれ』
    親戚一同が大反対する中で、唯一、私を応援してくれたじいちゃん。若い頃、歌手を目指していたのだと、葬式のときばあちゃんから初めて聞いた。
    『ずっとやり続けていれば、何とかかんとか形になる。それが思ってもみなかった形でもな』
    シャンソンが好きだったじいちゃん。戦争で両親を早くに亡くし、家族を養うために色んな仕事をしたのだと、酒を飲みながら話してくれた。
    『俺は、歌うのが好きなんだ。だから、金がもらえなくたって歌う』
    日曜日には必ず、レコードをかけて歌っていたじいちゃん。じいちゃんはデビューはしなかったけど、そんなこと関係なく歌手だった。
    それって、すごく大事なことじゃないか?
    売れたから、そう思うんじゃない。売れる前から、そうだと知っていた。でも、そういう大事なことは、すぐに忘れちゃうんだ。

    自分のぺしゃんこの財布を見ると、たまに、じいちゃんのことを思い出す。それから、こう思う。私は、もうやりたいことをやれていて、売れるとか売れないとか関係ない部分で、もう十分幸せなんだ。
    新しいものが嫌いなわけじゃないけど、多分、私はまだ、この財布を使い続ける。
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